日本袋物概史 | 編集/発行 京都袋物協同組合 | ||
昭和五十二年十一月発行 |
第1部 日本袋物概史 > 二、むかしの袋物
> 明治・大正時代 > 信玄袋 ( 111ページ
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信玄袋
『風俗辞典』をみると簡潔に、信玄袋について次のように紹介している。
<しんげんぷくろ ― トランクと同じように使われた衣服入で、もとは手提と
して明治二十四年ごろから現われ始め明治三十四年に及んで、その流行をみ
た。その後千代田袋・籠信玄などという新型が登場したが、明治四十三年に及
んで信玄袋が衣服入という大型に転じて次第に廃れトランクと入れ替るように
なった>
もともと信玄袋は布帛でつくるのを主とし底をつけ口を紐で締めくくるように
した旅行用の手提袋である。『大百科事典』をひもとくと
<種々の財物を合せ入れることの出来る袋を合財袋といい信玄袋・籠信玄・干
代田袋等をふくむ>
とし〔信玄袋〕多くは防水布・イス等に張る厚手布地を以て造る。製法はまず底
となるべき部分を造り、これに密着させて布地をまわし、その上部に紐の通るべ
き個所を造り、強靱な紐を通す。この信玄袋の底部に籠を付したものを〔籠信玄〕
という。この他に〔干代田袋〕といって上品な布地を用いた高尚なものがある
― と。
『服飾近代史 ― 遠藤武編』には信玄袋の由来について武田信玄(戦国時代の武将。
名は晴信、信玄は法名。甲斐国の主となり上杉謙信と川申島に戦ったのは有名)が陣中で用いたと
か、甲斐の人の考案したものであるとか伝わるとしている。
<このような形式の火打袋や巾着は古くからみられたものだが、明治初期には
手提として用いられたものの若い人の間では流行しなかった。鹿鳴館でしきり
に舞踏会が催された折り上流婦人間で西洋風手提袋として輸入の口金付手提袋
が用いられていたのが明治三十年に至って信玄袋として爆発的流行をみた>
といわれ明治三十一年新聞連載の徳富芦花作『不如帰』の中には「エゾ錦の信玄
袋」とかかれ「浪子の伯母、浪子の媒妁人、貴族院議員の子爵夫人」すべてに
「品のよい信玄袋」を持たせている。しかも、この小説に登場する「五十歳あま
りの婢」も信玄袋を提げて主人に従っている描写があり、貴婦人から婆やに至る
まで信玄袋は愛好されたらしい。
信玄袋の変形として東京の京橋区尾張町の「伊勢新」から売り出されたものに
<四季袋>というのがあり繻珍に菊、牡丹文様などを配してあった。